女を拒絶してきた理由
わたし自身が、小さい頃から
ずっと女に生まれてきたことを後悔したり、
憎んで女で拒絶をしてきた理由は
いくつも思い当たることがあります。
例えば、家事や育児に母親は毎日追われていて、
機嫌わるく生きているのを見て
自分も機嫌わるく生きることになるのかと
将来が怖くなったから。
加えて、わたしが「お姉ちゃん」ということで
弟たちの世話をしたり家の手伝いをすることが多く
不自由で損な性別だと思ったから。
いくつも、心あたりはあります。
でも、「女である自分」を受け入れようと
決めたきっかけは、ひとつだけです。
出産で、すべてが変わった
女を受け入れようと
決めたきっかけは「出産」です。
子どもを生み終えた直後にわたしは、
「女なんて最低だ」と思っていたなんて
なんて無知だったんだろうと呆然としました。
まだへその緒がついている息子が
お腹の上に乗っている姿をみながら
この世に、これ以上のエネルギーなんて存在しない
なんて、凄いことがこの世にあるんだろう。
この地球上で
最も強烈な神秘的かつ根源的なエネルギーが
出産の力としてここに存在していたことを
目の当たりにしました。
こんな力を与えられた「女」という存在を、
幻滅して、憎んで恨んで諦めてきたなんて
なんて愚かなんだろうかと
それまでの30年ずっと信じてきたことが
吹き飛ぶ衝撃でした。
子宮も、
人間の身体も、
女も凄い。
そうして、
ただただ、感動していたのです。
わたしも赤ちゃんも、絶対に生きるんだ
具体的に、「出産」とはなんなのか。
わたしが感じたことは
赤ちゃんを生み出している時、
自分が今、生きる方向に進んでいるのか
死ぬ方向に進んでいるのかわからないけれどでも、
わたしも赤ちゃんも
「絶対に生きるんだ」という
意思だけがそこにありました。
子宮のもの凄い躍動感と、
子宮に引っ張られて動かされて
引きちぎれそうなまわりの臓器の痛みも
すべて「新しい命」のために必要な愛おしく、
全身全霊が
産道に、
赤ちゃんに集中。
わたしも、赤ちゃんも、
お互いが自分で自分を感じながら、
お互いにお互いを感じながら、
自分を信じて、相手を信じて
信頼し合って力を合わせている。
そして、自分と相手の境界線が消え
わたしたちは、生命の根源的な約束
「生きる意志」によって一体化していた。
相手がどんな人か
自分がどんな人か
そんなことよりも大事な
「信頼」と「生きる意志」。
わたしも暗いトンネルの先に明るい光がみえて、
「わたしも、生まれたんだ」と
実感したことを今でも鮮明に覚えています。
そして、この力は女の力です。
出産という場面で引き出されただけの
本来の女の力である事実を
わたしは受け入れざるをえなくなりました。
女でよかった
生まれてすぐ、
赤ちゃんの体重を測ってもらったり
助産師さんがいろいろ忙しくしているその時に、
わたしは、ただただ、
こんなエネルギーがある女という存在を拒絶していたなんて、
「わたしは100%まちがえていたのだ」と思い知り、
打ちのめされていました。
女でよかった。
なぜなら、こんなに凄いエネルギーがある存在
なのだから。
ただただ、凄すぎる。
その思いは、
他人への憧れや尊敬に対して抱くものと
同じでした。
女という性別を遠ざけすぎて
自分が女だと思えていなかったので
他人ごとのようでもある
不自然さは伴うものの
生まれて初めて感じた大事な想い。
そして、わたしはこの先の人生
「自分を誇りに思う」ということはなく
畏怖を感じるという感じがしました。
誇りはどこか社会的な承認を伴う言葉であるけれど
わたしが感じたのは、それを遥かに超えた
生命の根源的な畏敬の念だからです。
感動の中で、自分と社会への信頼を失う
人生で一番の感動を体験したからこそ、
これまでの自分の感性や自分の思考を疑いました。
誰に何かを言われてきたわけではないけれど
わたしは、100%まちがえていた。
これまでの自分を信じられなくなり、
同時に、
誰も、わたしに女の「凄さ、素晴らしさ」を
教えてくれなかったと、
自分以外の世界も疑い、
結果として、
わたしは人生で一番の感動の中で、
自分も社会も失いました。
なにを信じればいいのか、
わからない。
自分で自分を幸せにする自信が一切なくなったのです。
途方にくれました。
女として生きることを覚悟した
そうした、信頼できる自分を失くして
信頼してきた社会もなにもかも
失くした気もちでいても、
あの出産のエネルギーは強烈に刻まれていて
女の自分を認め受け容れよう。
女として生きることを覚悟して、
なにかを理解して、腑に落とし、
納得して生きるんだと決めたのです。
決めたからと、
すぐに切り替わることはありませんでしたが、
女であることが損だ、
どうせ女だからダメなんだ、
女って、なんてこんなに弱いんだ、
なんだか女の人生って
ろくでもないんだ、、と
これまで何度も思ってきたことは
誰かにつくられた「まやかし」だと
わかってしまったので、
女の自分を拒絶しながら生きることは
止めると決めました。
結局、また「出産のときは凄かったけれど」と
特別なことだと日常から切り離して、
これまでの否定する毎日を始めたら、
それは、自分が人生で一番感動した体験が
なかったことにする行為。
息子が与えてくれた生き直す機会を
捨てることになり、
もう、そんな人生生きている意味はなく、
これ以上、続けることが不可能に
なってしまったのです。
男性への偏った見方も変えていった
そこから少しずつ女を受け入れながら、
男が羨ましい、
生まれながらに、男は優れているし
自由で強くて、優遇されていて、
無責任でも許されている、といった
男性への偏った見方も変えていきました。
男に勝ちたい
そして、認められたい
男が憎らしくて仕方がない
男なんてどれほど傷つけたってかまわないという
戦う相手、欲求を押しつけたる相手、
八つ当たりの相手としての役割を負わせていた自分を
終えていくことにしたのです。
そうして歩みを進めて思い出した
本来のわたしの願いは、
「女の自分を受け入れて
男の人と仲よくしたい」でした。
それまでの30年以上ずっと求めていた
男に勝ちたい、認められたい
男の仲間入りがしたい、でも
ありませんでした。
わたしの中にあったのは、
理解し合い認め合い、
支え合い、協力し合って、
共にしあわせに生きていきたい、
という、とてもシンプルな願いでした。
子どもの頃の夢を思い出した
そして、そうして自分を変えていく中で、
わたしは子どもの頃の夢を思い出したのです。
それは
「愛し合う男女がみたい」
というものでした。
わたしの両親は仲がわるかったので
シンデレラをみても、
白雪姫をみても、
「その先が大事でしょう?」
と、思う子どもだったのです。
その先が、みたい。
シンデレラも白雪姫も
相手と仲がわるくなって
ケンカばかりしてるかもしれない。
結婚をした後が大事なんだよ。
そして「愛し合う男女」なら
結婚をしているかどうか
なんて、どうでもいい。と。
わたしは、
白馬に乗った王子様と
結ばれることよりも
日本昔話に出てくるような
おじいさんと、おばあさんの
平凡な暮らしを
ロマンティックだと感じていました。
それは、言葉を交わさなくても
汲み合い、察し合い、
自分たちの暮らしに感謝しながら
満たされた毎日をくりかえす。
そこには、
何年もかけて生まれた
満ちた心や思いやりがあって
あぁ、なんて、素敵なんだろうと。
少し変わった子どもですが、
大人の今も変わらずある想いです。
若い頃は、白馬の王子様に
憧れるようなこともあったし
男性をライバルだと思ってしまったけれど、
また、思い出せました。
お互いに自由で、
お互いの違いを理解し
受け入れ合って尊重し合って
共に笑顔で生きている男女がみたい。
そう願う小さなわたしは、
愛し合う男女がつくる空間にいたら
きっとわたしは安心してしあわせで
自分のことを信じて
がんばっていろんな挑戦をしているだろうと
思っていたのです。
小さな子どもの頃わたしは
自分の明るい未来を信じて挑戦したかったのです。
今のわたしが、過去と未来のためにしていること
子どもが安心と信頼の中で
いろんな挑戦ができること。
地球の未来にとって
必要なことだし
人間の本来の姿なのだと思っています。
今では、「探す、みる」のではなくて
自分が当事者として、男性と仲よくあり、
共に笑顔で生きる女性であろうと
日々、努めているところです。
自分の内側の男性性と女性性の
引き裂かれた仲も修復しています。
わたしが、
女という性別を受け入れようと決めたのは
出産からですが、
きっかけは自分でいつでもつくれるし
どうなりたいか、どんな自分を生きるのかは
決められます。
女という性別を拒絶しながら
幸せを感じながら生きることは難しいです。
所詮、女という性別を拒絶するその心は
他人の価値観に合わせてつくられた偽りであり
心の傷が決めたことだからです。
偽りの人生を終え、この根源の力と共に
本来の自分を再設計して
女性としての自分の愛、自分の使命を全うしたいと
求めるあなたへ。
まず、あなたの声を聴かせてください。
【女のまほろば】メニュー一覧
心の奥と向き合うのは疲れるもので、休憩も必要です。
心の痛みから生み出せるおもしろさやユニークさがありますので、
ちょっとお休みしたい気分の時に、ホッと一息ついてください。


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