母に会いに行く前日「私は二度と会わない」「生きている間に会うのは最後」というつもりでいました。そして、最後の手紙を書くことにした。「ありがとう」と「ごめんなさい」を箇条書きにした手紙を用意しようと思った。
「ありがとう」は書き始めるとすぐに50個ほど浮かんできた。まだまだ書けそうだったが、バランスを考えて「ごめんなさい」も同じくらい書こうと思い、交互に書くことにした。
しかし「ごめんなさい」に切り替えたとき、不思議なことに何も浮かんでこなかった。頭の中では言葉は思い浮かぶのに、手が全く動かない。まるで金縛りにあったように。
心の奥深くで私の体を動かしている何かが、強く主張していた。 「私は何も悪くない。私は何も悪くない。悪いことなんて何もしていない。」
母親を信じて、母親の生き様を見て決めた人生を歩んできただけなのに、なぜ私が謝らなければならないのか—その思いが私を支配していた。
頭では感謝も謝罪も同じように言葉にできると思っていた。しかし、それは単なる想像上の自分でしかなかった。実際の私の中には「謝ることなど何もない」という強い主張だけがあった。
この瞬間、私は自分の頭と心の距離がとても遠いことに気づいた。私の中には無視し続けてきた憎しみ、恨み、嫌悪、殺意、拒絶、そして言葉にできない感情がたくさん眠っていたのだ。
「いい人、いい子」を演じ続けてきたからこそ、それらに気づけなかった。母の命を奪うようなことがあっても「私は悪くない」と思い込むほど、その主張は強かった。
高校生のとき、「母がこんなに頑張ってくれているのに、なぜ感謝できないのか」と自問していた。もし母が亡くなったとしても、悲しみや寂しさで泣くことさえ想像できなかった。「自分はどれほど冷徹なのだろう」と思っていた。
20年が経ち、感謝をして涙を流すことはできるようになったが、それでも健全な心からは遠いことを知った。初めて「この状態は苦しい」と自分自身のことを思えた。これほど異常な状態なのに、ずっと無視し続けてきたのだと気づいた。
「いい人、いい子」を演じ続けてきたからこそ、今の苦しみがあるのだと理解した。
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